【沖縄美ら海水族館・アルムナイ】吉戸三貴さんの退職ストーリー

さまざまな企業のアルムナイをその想いとともにご紹介していく企画「アルムナイ・アルバム(ALUbum)」。今回は、沖縄美ら海水族館で広報を担当されていた、吉戸三貴さんにご登場いただきました。

株式会社スティル
代表取締役/PRプランナー
吉戸 三貴 氏
株式会社スティル
代表取締役/PRプランナー
吉戸 三貴 氏

那覇市出身。慶應大学卒業。沖縄県の奨学金でパリに留学し、帰国後、沖縄美ら海水族館の広報担当となる(2004~2008年)。独学で第1期PRプランナー資格を取得。2008年に東京の大手PR会社に転職し、外資系メーカーや官公庁の大型プロジェクトのリーダーとして経験を積む。より柔軟な発想でコミュニケーション課題を解決したいとの思いから、2011年に㈱スティルを設立。現在は沖縄県の観光関連事業で委員を務める他、企業や自治体、ブランドのPRコンサルティングや人材育成などを手がけ、国内外での講演、執筆活動も行う。2019年春、日本初の広報・情報学修士号を取得。【著書】『内地の歩き方』(沖縄県産本大賞2017優秀賞受賞)ほか

私と沖縄美ら海水族館をつなぐ3つのポイント

  • 沖縄美ら海水族館への感謝:一生をかけて大切にしたい仕事と、数えきれない挑戦をさせて頂いたこと
  • 退職後も活きる沖縄美ら海水族館で得たもの:「広報」という人生の軸
  • 退職後の関係性:ゆるやかにつながっている感覚があり、心のどこかに大切にある存在

沖縄美ら海水族館(2004年〜2008年)への入社の経緯

元々はかなりの人見知りだったのですが、パリ留学中に大家さんの脱税を発見して家を追い出されかけるという出来事があり、コミュニケーションの大切さを実感しました。帰国したら「伝える」ことに真剣に取り組みたいなと思っていたところ、新聞で、沖縄美ら海水族館の募集告知を見つけたんです。

水族館を運営する財団全体での募集だったので部署は選べませんでしたが、開館したばかりの世界最大級の水族館なら、たくさんの出会いや挑戦があるのではないかと考え、飛び込みました。運よく合格し、受け取った辞令は「企画広報」の担当。そこから、怒涛の広報ライフが始まります。

新体制の部署にポンッと入った形だったので、教えてくれる人もいない、マニュアルもない、企画や広報が何かもわからないという状態からのスタートでした。でも、水族館はほぼ毎日オープンしていて、年間1000件近い広報対応があります。できるできないを言っている場合ではなく、とにかく広報と水族館のことを勉強し、現場で対応しながら学び続けました。

沖縄美ら海水族館時代に携わった仕事

今思えば、この時が人生で一番勉強し、働いた時期だったかもしれません。上司と同僚に恵まれ、力いっぱい仕事をさせてもらったので、大変ながらも楽しい思い出が数えきれないほどあります。

特に、心に残っていることを2つあげるとしたら、水族館を舞台にした「映画撮影」と、また取材に来てほしいという思いで取り組んでいた「お礼状書き」です。

映画の撮影は早朝から深夜まで長期間にわたり、多くの人、場所、生き物が関わるので、広報時代に携わった仕事の中でも特にハードでした。お客様にご迷惑をおかけしないように、でも、監督が思い描く画(え)が撮れるように、迷いながら考えながら調整し続ける毎日。朝5時からジンベエ待ち(良い位置に来るまでじっと待つ)をしたり、夜中にイルカプールの裏で皆でスープをすすったり……。監督の名前を冠して「〇〇組」と呼ばれるチームの皆さんと水族館スタッフが心をひとつにして取り組んだプロジェクトです。

なりゆきで、広報スタッフ役でエキストラ出演もしたのですが、ラストカットを撮り終えた時、クルーの方が「最高の(広報としての)アシスト、最高の演技でしたよ!」と、笑顔で声をかけてくれたことを覚えています。色々な意味で、得がたい経験でした。

もう1つの「お礼状書き」は、メディアの方に、沖縄美ら海水族館にぜひまた来てくださいという思いを込めて、取材のお礼や年賀状の形で、年に数百枚、お送りしていました。当時は20代後半で、広報としては未熟そのものでしたが、水族館を好きになってほしい、魅力を伝えたいという強い思いがありました。その時、自分の中に生まれた熱量が、広報の専門家として活動する「今」につながっています。

水族館時代にメディアの方へ書いていたお礼状の再現
水族館時代にメディアの方へ書いていたお礼状の再現

沖縄美ら海水族館を退職した経緯

素晴らしい環境で好きな仕事をしていたので、不満はひとつもありませんでした。ただ、数年働くなかで、「人気施設の看板に甘えているのではないか」という思いが強くなっていきました。施設に魅力があるから取材をしてもらえるし、代理店さんの提案があるから新しい企画を実現できる。だとすると、「私は一体何をしているんだろう」、「本当に水族館の役に立てているのだろうか」、と感じるようになったんです。

加えて、沖縄県の奨学金でパリに留学したので、将来は、ささやかでも沖縄に貢献したいという思いがありました。そのためには、きちんと自分の専門分野を持たなくてはいけないと考え、まずは独学でPRプランナーの資格(第1期)をとりました。そして、厳しい環境で広報経験を積むために東京の大手PR会社に転職したんです。

正社員としてしっかり働いたのは水族館が初めてでしたし、恵まれた仕事と人間関係を30代で手放すのは、当時の私にとっては、本当に勇気のいることでした。周囲からは「もったいない」と言われましたが、「いつかはそんな日が来ると思ってた」「いる場所が変わっても、絶対また一緒に仕事しよう」と声をかけてくれる人も多く、昔の取引先やメディアの方々とは、今もいろいろな形で仕事をしています。

現在の仕事/取り組みについて

沖縄美ら海水族館も、広報の仕事も大好きでしたから、離れるのはとても辛かったです。でも、だからこそ、この選択を後悔しないように未来をつくっていきたいという思いで、ここまで歩んできました。

水族館の後、東京のPR会社を経て8年前に株式会社スティルを立ち上げ、広報の専門家として活動しています。今年の春には、広報の大学院を卒業し、日本初の広報・情報学の修士号を取得しました。現在は、東京と沖縄を拠点に、企業や自治体のPRコンサルティング、経営者や文化人の方のブランディングなどを手がけています。

40代になったら本格的に取り組みたいと考えていた人材育成にも力を入れていて、広報の専門家として、大学で講義をしたり中小企業を支援したりもしています。講演や執筆では、女性の生き方や働き方というテーマをいただくことも多いです。

大学院を卒業したときの一枚
大学院を卒業したときの一枚

一番新しいプロジェクトは、沖縄で地元の新聞社と一緒にスタートした「女性のためのPR・ブランディングゼミ」です。さまざまな仕事に役立つ、広報の視点や考え方を6か月間で学ぶ、少人数制のプログラムです。学びたいと思ってくれる人がどのくらいいるか不安もありましたが、開講と同時に満席となり、広報への関心が高まっていることを実感しています。

PR歴も15年をこえましたが、私自身まだまだ勉強の毎日です。いつか、「沖縄で広報(PR)といえば」で思い出してもらえる存在になれるよう、コツコツと努力していきたいと思っています。

大学で講師をつとめている様子
大学で講師をつとめている様子

沖縄美ら海水族館とのリレーション/アルムナイ同士のネットワーク

尊敬する元上司や元同僚が何人もいます。定期的に集まるわけではありませんが、偶然、沖縄関係の会合で会ったり、メディアやSNSを通して近況を知ったりと、なんとなくゆるやかにつながっている感覚があります。

たまに食事をすることもあり、本を出した時には水族館時代の仲間が出版パーティーに駆けつけてくれました。ニュースで沖縄美ら海水族館が取り上げられていると見入ってしまいますし、「沖縄旅行で水族館に行ったよ!」と声をかけられると、広報担当時代の習性で思わずお礼を言ってしまいます。

どこにいても、心のどこかにずっと大切にある。そんな存在ですね。いつかまた、新しい形で皆と一緒に仕事ができたらいいなと願っています。

吉戸さんが出版された本。出版パーティには水族館時代の元同僚も参加してくれたそう
吉戸さんが出版された本。出版パーティには水族館時代の元同僚も参加してくれたそう

沖縄美ら海水族館へのメッセージ

広報は、私にとって人生の軸です。一生をかけて大切にしたいと思える仕事と出合えたこと、新米広報として、数えきれないほどの挑戦(や失敗)を許してもらったことに心から感謝しています。沖縄美ら海水族館での経験と思い出は、これからもずっと宝物です。

沖縄美ら海水族館の採用情報はこちら

編集後記

「沖縄旅行で水族館に行ったよ!」と声をかけられると、当時の習性で思わずお礼を言ってしまうという吉戸さん。退職から10年以上経つ今も変わらない心のつながり、そして感謝の気持ちが窺えます。

そんな吉戸さんから水族館の話しを聞くと、美ら海水族館へ訪れたことがある人もない人も、なんとなく水族館を好きになってしまうんじゃないかなぁと感じます(私は訪れたことはないですが、すっかり素敵なイメージを持っています(笑))。

年に数百枚出されていたというお礼状書きは、美ら海水族館の魅力を伝えたいという強い想いがあったからこそできたことだと思いますし、その熱量が、広報の専門家となった今につながっているというエピソードから、今の仕事に全力で向き合う大切さを感じさせられました。(アルムナビ編集部・築山 芙弓)